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「親切にみえる不親切」 渋沢栄一

「親切に見える不親切」

世間には、冷酷無情でまったく誠意がなく、行動も奇をてらって不真面目な人が、かえって社会から信用され、成功の栄冠に輝くことがある。これとは反対に、くそ真面目で誠意にあつく、良心的で思いやりに溢れた人が、かえって世間からのけものにされ、落ちこぼれとなる場合も少なくない。

「天道は果たして是か非か(お天道様のやることは、果たして正しいのか、間違っているのか)」

という矛盾を研究するのは、とても興味ある問題である。

思うに人の行為が良いのか、それとも悪いのかは、その「志」と「振る舞い」の2つの面から比較して、考えなければならない。「志」のほうがいかに真面目で、良心的かつ思いやりにあふれていても、その「振る舞い」が鈍くさかったり、わがまま勝手であれば、手の施しようがない。

「志」において「人のためになりたい」としか思っていなくても、その「振る舞い」が人の害になっていては、善行とはいえないのだ。昔の小学生が読む本に、「親切がかえって不親切になった話」と題した話がある。雛が孵化しようとして卵の殻から出られないのを見て、親切な子供が殻をむいてやった。ところが、かえってひなは死んでしまったというのだ。

これに対して、「志」が多少曲がっていても、そのふるまいが機敏で忠実、人から信用されるものであれば、その人は成功する。行為のもととなる「志」が曲がっているのに、「振る舞い」のほうが正しいという理屈は、本来的には成り立つはずもない。しかし、道義にかなっているように見せかければ、聖人ですら騙しやすくなるものだ。

同じように、実社会においても、人の心の善悪よりは、その「振る舞い」の善悪に重点が置かれる。しかも、心の善悪よりも「振る舞い」の善悪のほうが、傍から判別しやすいため、どうしても「振る舞い」にすぐれ、よく見えるほうが信用されやすくなるのだ。

たとえば、江戸幕府の八代将軍吉宗公が、市中の見回りに出たさい、親孝行の者が老母を背負って、お寺にお参りしていたので、褒美を与えた。ところが、普段から行いの悪いならず者がこれを聞いて、

「それなら俺も1つ、褒美をもらってやろう」

と、他人の老婆を借りて背負い、お参りに出かけた。吉宗公が、これにも褒美を与えたところ、側役人が

「彼は、褒美をもらいたいために、孝行を偽ったのです。」

と、待ったをかけた。すると吉宗公は、

「いや、真似はよいことである」

とお褒めの言葉をかけたというのだ。さらに「孟子」という古典には、

「絶世の美女である西施(せいし)も、汚物を浴びてしまえば、皆鼻をつまんで逃げてしまう」

という言葉もある。いかに時代を超えた美女といえども、汚物を浴びては、誰もそばに近寄るものがいなくなってしまうわけだ。それと同時に、悪魔のような心を持っている悪女でも、外見が色気に溢れていれば、知らずしらず迷わされてしまうのが男心でもある。だから「志」の善悪よりは、「振る舞い」の善悪のほうが人目につきやすいのだ。こうして口がうまく、おべっかを使う人間が世間でもてはやされたりする。逆に、耳の痛い忠告をしたり、良心的で思いやりある人が足を引っ張られ、

「なぜお天道様は、こんな不正義を許すのか、お天道様は正しいのか、間違っているのか」

というなげきを漏らすことになる。これに引き換え、わるがしこい人や、表面をうまくとりつくろう人は、比較的成功し、信用される場合が出てきてしまうのだ。

 

(参)「論語と算盤」渋沢栄一 ちくま書店

  • 「親切にみえる不親切」 渋沢栄一

(Kazu)