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「為せば成る」上杉鷹山(終)

「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」

【財政状況の公開】
寛政2年(1790年)11月、鷹山は藩士に対し、改革への意見書を提出するように求めます。このとき、鷹山は藩の上層部だけにしか知らされていなかった財政状況を公開し、その年だけでも2万5千両の赤字が生じていること、藩の借金が総額30万両を超えていることを包み隠さず明らかにします。
そして、藩士たちから寄せられた340通もの意見書の多くは、鷹山の腹心だった莅戸義政を再び登用せよと訴えていました。
寛政3年(1791年)1月29日、鷹山はこの声を背景に再び財政改革に立ち上がります。莅戸義政を藩の重職である中老に登用し、改革のプランを作成させます。商業や流通の規制を緩和して産業を興し増収を計るなど、47か条からなる財政再建のプランです。
その1番目として挙げられたのが、広く改革への提言を求める上書箱の設置でした。上書箱へは、武士だけでなく、農民、町人からの意見も受け付けました。政治への不信感を払拭するのが狙いでした。実際に上書箱に寄せられた意見の中から、門閥や家柄にとらわれず、積極的に採用された優れた意見もあります。
その中には、かつての反対派からの意見も含まれていました。「管見談」です。書いたのは、七家騒動の際に打ち首になった藁科立沢の息子・立遠でした。藁科は漆100万本計画を批判したうえで、桑を増やし、養蚕をすることで市民が繁盛すると提言していました。
これを受けて鷹山は、自分の生活費をつぎ込んで桑の苗木の無料配布を開始します。桑畑にかけていた税金も廃止し、養蚕の技術指導を行うなど、農民の生産意欲を高めようとしました。

【成功した財政再建】
鷹山が無料で配布した桑の苗木から始まった再びの財政改革 その後、桑の木は米沢藩全体に150万本にまで普及しました。この鷹山の政策で米沢の人々はやる気を取り戻し、藩の経済も黒字に転じていきました。
文政5年(1822年)3月12日、鷹山は72歳で亡くなります。その翌年、米沢藩は借金のほとんどを返し終えました。再びの財政改革から、実に33年目のことでした。
上杉鷹山が生誕して250年、今も米沢の財政危機を救った鷹山を記念して毎年祭りが行われています。行列の人々が手にする提灯は、かつて鷹山が改革のシンボルとして点した火種を受け継ごうというものです。
米沢市の北にある白鷹町は、鷹山以来養蚕の盛んな地域として知られています。ここには地元の農家の人々から厚い信仰を集める「養蚕殿」があります。その中央には、養蚕の神様として白馬にまたがった鷹山の像が祭られています。
農民の声に耳を傾け、改革の志を貫いた上杉鷹山。17歳から始まったその改革は、半世紀の歳月を経てようやく成し遂げられたのです。
鷹山が度々家臣たちに語りかけていた言葉があります。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
上杉鷹山の改革への情熱、それは時代が混迷を続けるたびに、ますます輝きを増しているのです。

参考文献)その時歴史が動いた 心に響く名言集 NHK 三笠書房

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