「為せば成る」上杉鷹山(つづき)
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
米澤藩の財政再建を成し遂げた名君 上杉鷹山の言葉
(つづき)
新産業プロジェクトの失敗
竹俣は鷹山に「需要篇」と呼ばれるプランを献上します。新たな産業を興することで収入を取り戻そうというものですが、その中心は、漆の木百万本を藩全体に植えさせ、取れた実を藩が買い上げ、それで作ったロウを専売しようというものでした。
しかし、同じ頃、西日本でハゼから取るハゼロウが登場。漆ロウより品質がよく、収量も多かったため、米沢のロウは市場から駆逐されていってしまいます。
加えて、天明二年(1782)、竹俣当綱がスキャンダルを起こします。米沢藩では、
初代謙信の命日には酒を飲んではいけないしきたりだったにも関わらず、朝まで飲み明かしてしまったのです。
鷹山は竹俣を隠居させ、禁錮の刑に処します。竹俣の処分から半年後、協力者だった莅戸善政も隠居を願い出ます。鷹山はこれで腹心の家臣を二人も失ってしまいました。
天明三年(1783)7月、信州浅間山が大噴火を起こし、「天明の大飢饉」が起こり、財政は一気に悪化します。さらにその5ヶ月後、先代・重定の御殿が消失、重定は新しい御殿の建築に着手。飢饉と合わせ、新たな支出が藩にのしかかります。
結局、悪条件が重なる中、改革は挫折。鷹山は35歳で藩の座を退くことになりました。
しかし、新しい藩主の就任の儀式など巨額の出費で財政はさらに悪化します。藩はこれに家臣の給料カットで対応します。それまで中級武士の給料は年間18俵でしたが、33%もカットされたのです。生活に困った藩士の中には、年貢徴収で不正をはたらくものも出てきました。農民たちから余分に年貢を徴収し、差額を懐に入れたのです。
重税に耐えかねて、農民たちは田畑を捨てて逃げていきました。城下町では品物が売れなくなり、商人が藩に納める税金も激減します。かつては13万人あった人口も3万人以上減り、9万人台まで落ち込んでいました。
これは当時藩士のあいだで密かに出回っていた政治を批判する文書です。
「藩の上層部は領民の身の肉まで取り上げ、不埒千万である。政治の混乱は賢君、鷹山を隠居にしたためである」
鷹山もこうした藩の惨状に心を傷めていました。改革や倹約を何度行っても経済は乱れ、借金はかさむばかりである。この上は、広く藩の祝儀を行い、上下一致するしかない。鷹山は再び改革の舵取りを担う決意を固めていったのです。
参考文献)「その時歴史が動いた」 心に響く名言集 三笠書房
つづく↓
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