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「今日は死ぬ番である」藤堂高虎(2)

寝室を出る時から、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があればものに動ずることがない。 足軽から32万石の大名に上り詰めた男 藤堂高虎の家訓

(つづき)
そんな高虎が次に仕えたのは、羽柴秀吉の弟・羽柴秀長でした。秀長は300国の知行で高虎を迎え入れます。そして天正10(1582)年、織田信長が本能寺の変で世を去り、秀長の兄・秀吉が一気に天下をつかんでいきます。羽柴家に仕えて7年、高虎は知行四千六百石にまで出世し、一軍を率いる武将となります。
しかし戦上手がひしめく羽柴家の中で、高虎は戦場の武功に頼る出世に限界を感じるようになります。さらに出世するにはどうすればよいのか。高虎が見つけた道は城づくりでした。10箇所を超す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目し、攻められにくい城の設計術を身につけていったのです。
彼が生涯に作った城はおよそ20。高虎は、築城の第一人者として羽柴家の不動の地位を獲得していきました。そして、姓を豊臣と改めた秀長の家老になり、2万石を与えられます。専門性を身につけることで、他の武将との競争を勝ち抜いたのです。

【関ヶ原の戦い】
天正19(1591)年1月、秀長がこの世を去り、紀伊・和泉・大和100万石は、秀長の子・豊臣秀保に受け継がれます。ここで高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれます。
実子が育たなかった秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていました。しかし文禄2(1593)年、実子・秀頼が生まれると、彼らをにわかに疎んじ始めたのです。
文禄4(1595)年7月、無反の疑いをかけられた秀次が切腹します。高虎の主君・秀保も原因不明の死を遂げました。秀保の家が廃絶となり、多くの家臣が、秀吉配下へと移っていく中、家老を務めた自分にもいずれ秀吉の刃が向けられるだろうという危険を察知した高虎は、高野山に向かい、秀保、秀長を弔うために髻を切ります。そして今まで築き上げた2万石の知行や家老という地位を捨て、忽然と俗世間から姿を消したのです。
果たしてその後、秀保や秀次に使えていた家臣が、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられていきました。しかし、すべてを捨てて寺に入った高虎には、さすがの秀吉も手を出せません。それどころか、高野山へと使者を送り、自分に仕えるよう説得を繰り返します。
高虎は考え抜いた末に下山します。喜んだ秀吉は、高虎に以前の3倍以上の7万石を与えました。こうして高虎は、7人目の主君、天下人・秀吉の元で再び歩み始めたわけですが、慶長3(1598)年8月、秀吉が亡くなります。
その時、高虎はいち早く徳川家康支持の態度を明確にします。豊臣恩顧の大名たちは、高虎を「裏切り者」とののしりましたが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者は、なたの首が折れたようなものである」と動じませんでした。

つづく

  • 「今日は死ぬ番である」藤堂高虎(2)

(Kazu)

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